2012年4月28日土曜日

パパは、なぜ愛ちゃんを選んだの?(その2)

エピソードⅠ

去る2月26日、草野球の友人たちと近所の河原の公園でバーベキューをした時のこと。


ウチも娘を連れて遊びに行きました。
バーベキュー参加時、

「いやー、またこんな悪人だらけの集まりに参加しちゃったよー(笑)」
「しかし、見事なまでに皆、悪人ヅラやなあ(笑)」

とか、ジョークを飛ばしていたんです、ハイ。
そしたら、娘の顔が急に緊張してきて、小声で「パパ、愛ちゃんお家に帰りたい・・・」とか、言うんです。

”あれ、5歳の子供に「悪人」という単語の認識があるんかな?”と不思議に思いつつ、「愛ちゃん、ウソウソ!みんなパパの友達やで(笑)」とか言ってあげると、少し安心した様子でした。

バーベキューの最中、友人も娘の相手をしてくれて、とても楽しそうでした。

で、その帰りなんです。
車の助手席に乗ってる娘が、言いました。
「ぱぱ、みんな優しかったよ!悪い人じゃない!」
「悪いっていったらダメ!悪いっていったら悪くなる!いいって言えばいい人になる!」---①
って、私を諭したんです。

えーーー!?!
この子が私に発した、初めての”論理的な(因果関係に言及する)”話でした。
それまでは、単に喜怒哀楽、今日の出来事、など単純な話しか無かったのが、突然、抽象的な観念に係る命題に言及したので、驚き桃の木サンショの木です、たまげました。
事実を把握した上での発言なので、字面だけのウケウリではなさそうだ・・・
そして、急に今まで感じたことのなかった感覚に陥りました。

ん?
この感覚は何だ?
自分は、何に驚いているんだ?
・・・

どうやら、こういうことです。

私的には、上記①の命題は、人間が人間らしい世界を築くための一つの方便であって、人間が「理性」の力で、多くの「経験」から導き出した道徳のようなものと認識していました。
つまり、人間が創りだした命題、”人工の道理” だと思っていたんです。
背後に、自然の法則めいたものがあるかも、などとは思ってもいませんでした。
でも、人生経験の少ない子供が発するということは、ひょっとすると、この命題の背後には自然に存する、人間が創造するまでもなく存する法則があるのか?

例えば、”宇宙”という「観念」は人間の理性がつくったいわゆる”人工の”観念ですが、”宇宙”そのものは、人間が観念するしないにかかわらず存在している自然の存在のように思います。(果たしてどうなのかわかりませんが・・・)

余談になりますが、こんな文章を読んだことがあります。 
地球のどこかの木が倒れても、それを見聞きするものがいないと木が倒れた事実があったかどうか分からない。すなわち、観察者がいなければ、その客体も存在しない。”宇宙”も人間が観察するから存在するのであって、人間が存在しないと”宇宙”もない。
なんて話です。

なんだかよくわかりませんが、ともあれ、人間が便宜的に作ったと思っていたものが、そうではなく、もともとそこにありてあるものだったのか?と新鮮な驚きを感じたのです。
”自然と人工の境界線”が、感覚的に揺らいでいます。

この世界は、どこまでいっても掴みどころのない世界のようだ、とあらためて実感しました。

つづく

*論理的に完成された文章ではありません。あくまで散文です。