2012年4月30日月曜日

パパは、なぜ愛ちゃんを選んだの? エピローグ

エピソードⅢ

とある日の午前中、私が一人で車を運転していた時のことです。
びっくりしました!
車が横から突っ込んできたのです。
ちょうど私の座っているシートの真横のフロントドアーめがけて、やってきました。
真横からだったのでよけきれませんでした。

衝突箇所は運転席側のフロントドアであったにもかかわらず、私の体のどこにも怪我はありませんでした。
しかし、一歩間違えばヤバかった。
事後処理は、相手の保険会社さんと淡々と進められましたが、、、
それにしても、人間いつ何が起こるかわからない、というのはつくづく本当だ。

で、思ったのです。
もし私が突然いなくなったら、子供は・・・

知らないうちに、なんだかすっかりお別れモードに入っています。
家族として過ごした時間が走馬灯のように・・・
唐突に、さだまさしの『奇跡~大きな愛のように~』が、頭の中で流れ始めました。

奇跡~大きな愛のように~


ああ、大きな「愛」になりたい・・・(涙涙)
ああ、大きな「夢」になりたい・・・(涙涙涙)
ああ・・・

ハッ!
どうした!!俺!!!(笑)

万一に備え、自分は子供に何を遺しておくべきか・・・
財産上の権利義務を定める遺言も大事だが、なにより、パパは日頃どんなことを考え、どんな風に生きているか、家族をどんな風に思っているか、きちんと手紙などで遺しておく必要があるのではないか・・・

などと考えつつ、ふらふらしながらも、何とか仕事を遂行し、家に戻りました。
仕事用の車は家族用とは別にしているし、マイナスの出来事は必要がないかぎり言わないことにしているので、事故のことは言いませんでした(今現在も知りません)。
子供は、なにか私に手紙を書いていたようで、帰宅するとすぐ、「パパ、手紙書いたよ!」といってそれを見せてくれました。

↑これ

愛より
パパ、いつも元気ですか
いつも遊んでくれてありがとう♡
いつも大好きだよ

ここまでは、イイ!
ああ、癒される(笑)

が、この後です・・・

死ぬ(彼女は「死ぬ」を「しむ」といいます)、お手紙つくるから、死なない時、お手紙つくれへんけど

なんの暗号ですか!?
誰の死についてのお話ですか?
あなたには、何が見えているのですか?

このタイミングで、この文章。
またしても、ミステリアス・ゾーンに突入しそうで・・・
・・・

とりあえず、家族に特別な手紙を遺すのは見送ることにした。

おしまい

2012年4月29日日曜日

パパは、なぜ愛ちゃんを選んだの?(その3)

先日のNHKスペシャル「がん」、面白かった(興味深かった)ですね~。
「がん」というものに対する、新たなパースペクティブというか心構えというか、そういうものが芽生えました。

さて、前回の続きになりますが・・・

エピソードⅡ

去る4月の第一日曜日、娘と近所の きのこ公園 に遊びに行きました。

のんびりと、滑り台に登ったり降りたりしていた時のことです。
ふとした拍子に娘が訊いてきました。
「パパ、愛ちゃんのこと、すき?」

私 「おお、すきやで~」
そう答えた後、一呼吸の間、娘が私の顔をじっと見ていました。
そして私の目を覗きこみ、微笑みながら訊いてきたのです。

「パパ、パパはどうして愛ちゃんを選んだの?」

私 「・・・」
返事につまります。
またまた、不思議な感覚に陥ってしまった。

私は、子どもができた時、その子が男の子なのか女の子なのか、まったく気になりませんでした。
ましてや、私はこの子が生まれるまでは、この子のことを知りませんでした(当たり前ですな)。
なのに、なのになんだが、、、私はその言葉に妙にリアリティーを感じたのです。

言われてみると、そんな気がしないでもない。
論理的には、100%ありえないのだが・・・
なんだか、戯言には聞こえないゾ・・・
実のところ、私は、この子に何度も助けられているし・・・
この子と共に過ごす時間を望んでたような・・・

かなりそれっぽい気がしてきた(笑)!

その日は、一日中、頭がフワフワしていました。

自意識を確かめるべく、夜、瞑想をしてみた。
生まれる前から娘を知っていた、なんてことは、、、やはりない、うん。
生まれてないんだから、ありえないし、、、うん。
「魂」なるもの、言葉は知っているが、その存在を実感したこともない、うん。
結論として、私の理性やその周辺の感覚は、完全にこのファンタジーを否定している。

だが!
だが、しかぁし!

あー、自分はどこかでこのファンタジーを肯定している!
あー、この肯定感はどこから来るのだ?
ファンタジーを肯定している自分を面白がっているだけなのか?
いや、なにかリアリティーを感じるのだが・・・

あー、脳みそが落ち着かない!!!

人間の意識は、どこまでこの世界を把握できるのだろう・・・
自分の生きているこの世界が、実はまったく自分の感じているようなものでないとしたら・・・

悩ましい日々は終わらないのであった。

つづく

2012年4月28日土曜日

パパは、なぜ愛ちゃんを選んだの?(その2)

エピソードⅠ

去る2月26日、草野球の友人たちと近所の河原の公園でバーベキューをした時のこと。


ウチも娘を連れて遊びに行きました。
バーベキュー参加時、

「いやー、またこんな悪人だらけの集まりに参加しちゃったよー(笑)」
「しかし、見事なまでに皆、悪人ヅラやなあ(笑)」

とか、ジョークを飛ばしていたんです、ハイ。
そしたら、娘の顔が急に緊張してきて、小声で「パパ、愛ちゃんお家に帰りたい・・・」とか、言うんです。

”あれ、5歳の子供に「悪人」という単語の認識があるんかな?”と不思議に思いつつ、「愛ちゃん、ウソウソ!みんなパパの友達やで(笑)」とか言ってあげると、少し安心した様子でした。

バーベキューの最中、友人も娘の相手をしてくれて、とても楽しそうでした。

で、その帰りなんです。
車の助手席に乗ってる娘が、言いました。
「ぱぱ、みんな優しかったよ!悪い人じゃない!」
「悪いっていったらダメ!悪いっていったら悪くなる!いいって言えばいい人になる!」---①
って、私を諭したんです。

えーーー!?!
この子が私に発した、初めての”論理的な(因果関係に言及する)”話でした。
それまでは、単に喜怒哀楽、今日の出来事、など単純な話しか無かったのが、突然、抽象的な観念に係る命題に言及したので、驚き桃の木サンショの木です、たまげました。
事実を把握した上での発言なので、字面だけのウケウリではなさそうだ・・・
そして、急に今まで感じたことのなかった感覚に陥りました。

ん?
この感覚は何だ?
自分は、何に驚いているんだ?
・・・

どうやら、こういうことです。

私的には、上記①の命題は、人間が人間らしい世界を築くための一つの方便であって、人間が「理性」の力で、多くの「経験」から導き出した道徳のようなものと認識していました。
つまり、人間が創りだした命題、”人工の道理” だと思っていたんです。
背後に、自然の法則めいたものがあるかも、などとは思ってもいませんでした。
でも、人生経験の少ない子供が発するということは、ひょっとすると、この命題の背後には自然に存する、人間が創造するまでもなく存する法則があるのか?

例えば、”宇宙”という「観念」は人間の理性がつくったいわゆる”人工の”観念ですが、”宇宙”そのものは、人間が観念するしないにかかわらず存在している自然の存在のように思います。(果たしてどうなのかわかりませんが・・・)

余談になりますが、こんな文章を読んだことがあります。 
地球のどこかの木が倒れても、それを見聞きするものがいないと木が倒れた事実があったかどうか分からない。すなわち、観察者がいなければ、その客体も存在しない。”宇宙”も人間が観察するから存在するのであって、人間が存在しないと”宇宙”もない。
なんて話です。

なんだかよくわかりませんが、ともあれ、人間が便宜的に作ったと思っていたものが、そうではなく、もともとそこにありてあるものだったのか?と新鮮な驚きを感じたのです。
”自然と人工の境界線”が、感覚的に揺らいでいます。

この世界は、どこまでいっても掴みどころのない世界のようだ、とあらためて実感しました。

つづく

*論理的に完成された文章ではありません。あくまで散文です。

2012年4月27日金曜日

パパは、なぜ愛ちゃんを選んだの?(その1)

私達が生きているこの世界。

中学校の時に、カール・セーガンが監修していた”COSMOS(宇宙)”って番組を見た時、驚きと感動が入り混じった、すごい衝撃を受けたのを覚えています。


「宇宙ヤバイ」のコピペも雰囲気でてますよね。

---
ヤバイ。
宇宙ヤバイ。
まじでヤバイよ、マジヤバイ。
宇宙ヤバイ。

まず広い。
もう広いなんてもんじゃない。
超広い。
広いとかっても「東京ドーム20個ぶんくらい?」とか、もう、そういうレベルじゃない。
何しろ無限。
スゲェ!なんか単位とか無いの。
何坪とか何㌶とかを超越してる。
無限だし超広い。

しかも膨張してるらしい。
ヤバイよ、膨張だよ。
だって普通は地球とか膨張しないじゃん。
だって自分の部屋の廊下がだんだん伸びてったら困るじゃん。
トイレとか超遠いとか困るっしょ。
通学路が伸びて、一年のときは徒歩10分だったのに、三年のときは自転車で二時間とか泣くっしょ。
だから地球とか膨張しない。
話のわかるヤツだ。
けど宇宙はヤバイ。
そんなの気にしない。
膨張しまくり。
最も遠くから到達する光とか観測してもよくわかんないくらい遠い。
ヤバすぎ。

無限っていたけど、もしかしたら有限かもしんない。
でも有限って事にすると「じゃあ、宇宙の端の外側ってナニよ?」って事になるし、それは誰もわからない。
ヤバイ。
誰にも分からないなんて凄すぎる。

あと超寒い。
約1ケルビン。
摂氏で言うと-272℃。
ヤバイ。
寒すぎ。
バナナで釘打つ暇もなく死ぬ。
怖い。

それに超何も無い。
超ガラガラ。
それに超のんびり。
億年とか平気で出てくる。
億年て。
小学生でも言わねぇよ、最近。

なんつっても宇宙は馬力が凄い。
無限とか平気だし。
うちらなんて無限とかたかだか積分計算で出てきただけで上手く扱えないから有限にしたり、fと置いてみたり、演算子使ったりするのに、宇宙は全然平気。
無限を無限のまま扱ってる。
凄い。
ヤバイ。

とにかく貴様ら、宇宙のヤバさをもっと知るべきだと思います。

そんなヤバイ宇宙に出て行ったハッブルとか超偉い。
もっとがんばれ。
超がんばれ。

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何もないところから、何もせずに宇宙ができて、そのまま放置したら人間みたいなのが現れた・・・
理屈から考えて、ありえないでしょう!!
ありえないのに、自分はここにいる(ような気がする)・・・
不思議だ・・・
そんな奇跡に比べたら、サイババが何もないところから物を出したり、テレポーテーションしたりなどについての議論などはどうでもよくなってしまう。

何もない宇宙、何もしないで放っといたら自分たちみたいな存在が現れた・・・

この方が、よほどミステリーだ。

ただ、この驚きって、「理性」の驚きなんだよね。
頭で考えると・・・この世界はあまりにも非常識だから驚いてしまう。
しかし、この世界の神秘を「感性」で感じとることは、実のところ、できないでいた。
自然の中を旅したり、サイババのアシュラムで過ごしたりする中で、もちろん、驚き、感動はいっぱいあった。
でも、この世界の神秘を「感性」で驚きをもって感じとることは、できていなかったように思う。

未来の予言もワンダフルだし、不治の病を癒すのもファンタスティックだ。
しかし、その驚きや感動とはまた違った異次元の驚きを、最近の娘の言動から感じさせられるのだった・・・

つづく