その日は、事情により、なんともやりきれない気持ちでまだ幼い娘とドライブをしていた。
夕暮れが差し迫ったころ、娘と海岸を散歩しようと、古い民家の駐車場に車を置かせていただいた。
その民家の持ち主であるおばあさんは、その駐車場の縁で、簡易チェアに座っていました。
海に沈む夕日を眺めています。
そのおばあさんは、海岸に向かって歩いて行こうとする私達に話しかけてくれました。
夕日が、季節により、時間により、毎日違う顔を見せること。話し終わると、また、しみじみと幸せそうな顔で夕日を眺めているのです。
そして、それぞれがなんとも美しいこと。
私は、その時、今まで感じたことのないショックを受けた。
少しめまいの混じったショックだった。
この驚きが何によるものか、にわかにはわからなかった。
失礼ですが、このおばあさんには持っているものがあまりないように思った。
家は古びています。
これから未来に向かって歩んでゆく「希望」はどうでしょう。
背中も当然曲がっています。
年をとるというのは、そういうことだと思っていた。
このおばあさんは何故そんなに幸せそうなんだろう。
そんなことを思いながら、娘と海岸に下りた。
確かに綺麗な夕日に、静かに包まれていった。
娘は「丸い石があった」といって、私にそれを手渡してくれた。
夕日の中で、海辺を歩く娘の後姿が目に焼き付いている。
突然、パッと視界が開けたかように、特別な感覚が舞い降りてきた。
それは「視界」が美しいというより、「この世界」が美しいという感覚。
今までで最も感動した瞬間といっても過言ではない。
その時、私は、あのおばあさんの心にある感覚がどういうものであるか、理解できたような気がした。
それは「完全なもの」「完璧な美」。
おばあさんがいなければ、たぶん、私は気づかなかった。
その感動は、数日続いた。
この時に娘がくれた石はもう一生の宝です。
今も肌身離さず持っています。
- 日の出貝 -
「二つの少しも欠けた所がない面がただ一つの縦帯で結ばれ、完全に一つに合わさって、どっちの面にも暁の光が差している。」
【 海からの贈物 】
アン・モロー・リンドバーグ 著
吉田健一 訳
新潮文庫 1967 より
この本には、はかないようではあるけれども、美しくさらに永遠の価値があるものについて、次のように書かれています。
我々は皆、自分一人だけ愛されたい。
「林檎の木の下で、私の他の誰とも一緒に坐っちゃいや」という古い歌の文句の通りである。
そしてこれは、W・H・オーデンが言っているように、人間というものが持っている一つの根本的な欠陥かもしれない。
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どの女も、男も、持って生まれた迷いから、適(かな)えられないことに心を焦がし、普遍的な愛だけではなくて、自分だけが愛されることを望む。
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しかしこれは、それほど罪なことだろうか。
私はこの句について或るインド人の哲学者と話をしていて、非常にいいことを聞いた。
「自分だけが愛されることを望むのは構わないのですよ」とその哲学者は言った。
「二人のものが愛しあうというのが愛の本質で、その中に他の物が入ってくる余地はないのですから。ただ、それが間違っているのは時間的な立場から見た場合で、いつまでも自分だけが愛されることを望んではならないのです」というのは、我々は「二つとないもの」、二つとない恋愛や、相手や、母親や、安定に執着するのみならず、その「二つとないもの」が恒久的で、いつもそこにあることを望むのである。
(中略)
日の出貝は美しくて、壊れやすい、儚いものである。
しかし「それだから幻影だ」というものではないので、我々はそれがいつまでもあるものではないという理由から一足飛びに、それが幻影であるなどと思ってはならない。
持続ということは、真偽の尺度にはならない。
蜉蝣(カゲロウ)の一日や、天蚕蛾(テグスガ)の一夜は、その一生のうちで極めて短い間しか続かない状態だからといって、決して無意味ではないのである。
うん。
日々目まぐるしく働く私たちの日常にあっては、なかなか思い出せません。
ですが、よくよく思い返してみると、誰にでも「完全な時間」があったはずです。
あの時はうれしかったなあ。
あの時はたのしかったなあ。
あの時は感動したなあ。
・・・
ほら、ありましたよね。
人は、未来について考えるといろいろ大変です。
でも過ぎた時間については、けっこう寛容になれるものです。
人生はもともと一瞬です。
ふと振り返った時、「完全な時間」が一時でも思い出せれば、それでいい。
少なくとも過去の人生については、それで十分ですよ。