2016年1月25日月曜日

完全な時間

- 昨年、夏 -

その日は、事情により、なんともやりきれない気持ちでまだ幼い娘とドライブをしていた。
夕暮れが差し迫ったころ、娘と海岸を散歩しようと、古い民家の駐車場に車を置かせていただいた。
その民家の持ち主であるおばあさんは、その駐車場の縁で、簡易チェアに座っていました。
海に沈む夕日を眺めています。

そのおばあさんは、海岸に向かって歩いて行こうとする私達に話しかけてくれました。
夕日が、季節により、時間により、毎日違う顔を見せること。
そして、それぞれがなんとも美しいこと。
話し終わると、また、しみじみと幸せそうな顔で夕日を眺めているのです。

私は、その時、今まで感じたことのないショックを受けた。
少しめまいの混じったショックだった。
この驚きが何によるものか、にわかにはわからなかった。

失礼ですが、このおばあさんには持っているものがあまりないように思った。
家は古びています。
これから未来に向かって歩んでゆく「希望」はどうでしょう。
背中も当然曲がっています。
年をとるというのは、そういうことだと思っていた。
このおばあさんは何故そんなに幸せそうなんだろう。

そんなことを思いながら、娘と海岸に下りた。


確かに綺麗な夕日に、静かに包まれていった。

娘は「丸い石があった」といって、私にそれを手渡してくれた。
夕日の中で、海辺を歩く娘の後姿が目に焼き付いている。
突然、パッと視界が開けたかように、特別な感覚が舞い降りてきた。
それは「視界」が美しいというより、「この世界」が美しいという感覚。
今までで最も感動した瞬間といっても過言ではない。

その時、私は、あのおばあさんの心にある感覚がどういうものであるか、理解できたような気がした。
それは「完全なもの」「完璧な美」。
おばあさんがいなければ、たぶん、私は気づかなかった。

その感動は、数日続いた。
この時に娘がくれた石はもう一生の宝です。
今も肌身離さず持っています。




- 日の出貝 -


「二つの少しも欠けた所がない面がただ一つの縦帯で結ばれ、完全に一つに合わさって、どっちの面にも暁の光が差している。」

【 海からの贈物 】
アン・モロー・リンドバーグ 著
吉田健一 訳
新潮文庫 1967           より

この本には、はかないようではあるけれども、美しくさらに永遠の価値があるものについて、次のように書かれています。
我々は皆、自分一人だけ愛されたい。
「林檎の木の下で、私の他の誰とも一緒に坐っちゃいや」という古い歌の文句の通りである。
そしてこれは、W・H・オーデンが言っているように、人間というものが持っている一つの根本的な欠陥かもしれない。 
**********
どの女も、男も、持って生まれた迷いから、適(かな)えられないことに心を焦がし、普遍的な愛だけではなくて、自分だけが愛されることを望む。
**********
しかしこれは、それほど罪なことだろうか。
私はこの句について或るインド人の哲学者と話をしていて、非常にいいことを聞いた。
「自分だけが愛されることを望むのは構わないのですよ」とその哲学者は言った。
「二人のものが愛しあうというのが愛の本質で、その中に他の物が入ってくる余地はないのですから。ただ、それが間違っているのは時間的な立場から見た場合で、いつまでも自分だけが愛されることを望んではならないのです」というのは、我々は「二つとないもの」、二つとない恋愛や、相手や、母親や、安定に執着するのみならず、その「二つとないもの」が恒久的で、いつもそこにあることを望むのである。
(中略)
日の出貝は美しくて、壊れやすい、儚いものである。
しかし「それだから幻影だ」というものではないので、我々はそれがいつまでもあるものではないという理由から一足飛びに、それが幻影であるなどと思ってはならない。
持続ということは、真偽の尺度にはならない。
蜉蝣(カゲロウ)の一日や、天蚕蛾(テグスガ)の一夜は、その一生のうちで極めて短い間しか続かない状態だからといって、決して無意味ではないのである。

うん。

日々目まぐるしく働く私たちの日常にあっては、なかなか思い出せません。
ですが、よくよく思い返してみると、誰にでも「完全な時間」があったはずです。
あの時はうれしかったなあ。
あの時はたのしかったなあ。
あの時は感動したなあ。
・・・
ほら、ありましたよね。

人は、未来について考えるといろいろ大変です。
でも過ぎた時間については、けっこう寛容になれるものです。

人生はもともと一瞬です。

ふと振り返った時、「完全な時間」が一時でも思い出せれば、それでいい。
少なくとも過去の人生については、それで十分ですよ。

2016年1月1日金曜日

音楽の力

第66回NHK紅白歌合戦の大トリは松田聖子さんの「赤いスイートピー」。


紅白ではないが、最近ある映画の大トリでこの曲を聴いて、音楽の力を猛烈に実感した。
「麦子さんと」という作品です。

テーマはもちろん「愛」。
自らの死に対する恐怖や肉体的苦痛などより大切な人を想う心を優先する、「愛する者」の情景を描いています。
そして、「愛される者」が「自分は愛されていた」ことを受け入れるまでの心模様がよく描かれています。

はたして、こういうテーマはえてして激情的に描かれます。
登場人物の動作も派手で、現場の光景も鋭利といえるほど美しく、劇中のBGMも激情的に振れやすい傾向にあると思います。
わたしはそれが当たり前だと感じていました。
だって、そのような自己犠牲の苦痛を乗り越えるといった「愛」の作用は、劇的で、抒情的、かつ、美しく、壮大で、夜中に街を走り回りたくなるような感動であって当たり前でしょう!
みたいな。

しかし、そのような一見「鋭利な愛」の物語も、「赤いスイートピー」の波動で、陽だまりのような「穏やかな愛」の物語に。
「赤いスイートピー」は、母娘の絆を描いた歌でないにも関わらずです。

逆に、なにげない風景、犬の散歩で普通に目にしているような光景であっても、「赤いスイートピー」の波動で、優しい田園に早変わり。

聖子さんの声と曲のハーモニーがなせる技ということか。



これは驚きでした。
上へ下への大騒ぎになりそうな人生の悲哀も、受け取り方次第で優しい愛の物語になりえるということです。
また、何の変哲もない生活の風景であっても、感じ方次第で優しい人生の一コマに変容しうるということです。

なんたることでしょう。
昔「エースをねらえ」というテニス漫画を全巻揃えて、当時のバイブルにしていた。
お蝶夫人だったか棟方コーチだったか、「人生の幸不幸は、その出来事そのものにあるのでない」といったセリフがあり、当方、分かってもいないのに、分かったかのように大人ぶってたものだが、今になってその意味が分かった(ような気がする)。

もしBGMが無かったり、逆にベートーベンの第九のような旋律であったら、この物語はどう映ったであろう。
そして実感した。
特定の出来事の幸不幸の色合いを決めているのは、出来事の内容もさることながら、受け取る人の心の波動であることを。

私は「赤いスイートピー」の波動に影響されて、悲痛・悲美であるはずのこの愛の物語を、物悲しくも暖かい愛の物語として受け入れることができた。
「音楽」がこれほど大きな影響力を持つとは思いもしなかった。

ちなみに「赤いスイートピー」、作曲:呉田軽穂ということだが、この呉田軽穂ってユーミンだったんだ!
知らなかった。

心の波動を旋律に変えて表現できるって素敵な才能だなあ。。。